母との思い出話

母が逝きました。

79歳でした。

少し母との思い出話を

この場でさせて頂くことを

お許しください。

僕が小学生1年生の時

卵、牛乳、鶏肉、チョコレート

のアレルギーになりました。

ほとんど

給食が食べれない状態の僕に

小学6年間

お弁当を作ってくれました。

最近になって

わかった事ですが

その頃の給食は

添加物も多く

身体に良いものとは

とても言えませんでした。

予防医学の先生に

「だから美野さんの身体は

健康なんですね」

と言われました。

今の 若い子達が

アトピーやアレルギーが多いのは

僕ら世代が

添加物をたくさん摂取しているのを

受け継いでしまっているからかとも

思ってます。

僕が小学3年生の時

担任の先生が

かなり暴力とヒステリーのひどい

女性の先生で

小学生の僕は

脅迫神経症を発症しました。

その僕の様子に 

母はいち早く気付いて

同じクラスの親御さんたちとも相談して

PTAに相談すれば

学校の問題点をもみ消される

可能性があるので

情報と証拠を集めて

教育委員会に直談判に

行ってくれました。

それによって

その先生は

「精神的に異常あり」

と判断されて

学校から追放されて

僕の症状も落ち着いていきました。

母は

「信念の人」でした。

自分の信じた

正義のために

貫く人でした。

そのせいで

人を傷つける事もありましたが

それ以上に

自分が傷付いていたと思います。

亡くなる前に

「オカンの

人を守りたいって言う

信念はワシがちゃんと引き継いどるけん

安心しんちゃい」

というと

「ほんとそーぢゃね」

そのあと

2人でビールで乾杯して

母はビール1本半呑みました。

母の意識まだしっかりしていた

最後の日でした。 

葬儀も

お寺も呼ばず

会場も用意せず

身内と

本当に親しい人だけで

行いました。

「体裁は何一つ人を幸せにしない

人の心のあり方が何より大事なんよ」

そんな人でした。

これが

良いとか悪いとか

誰にもいってほしくないです。

ただ、

母らしく生きて

母らしく逝ったな

と思います。

幸せだったと思います。

それで

僕たち家族は満足です。

逆に

師匠の葬儀は

1000人の参列者がありました。

八木の平安祭典

始まって以来の参列者だったそうです。

それも、本当にすごいなと

思いました。

お祭り好きの

師匠らしい最後でした。

それはそれで

ただ「凄いなぁ」

と思いました。

どちらも

僕にとっては

学びの深い

良い時間でした。

この

母との

強い絆と

信頼関係でできた

繋がりを

僕は受け取ったので

これから更に

オカンの想いも

僕の想いにプラスして

「大切な人たちの

食と心を守る」

そのために頑張って生きていきます。